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やまびこ編集室のあれこれ日記

伝統を明日につなぐ「田山花踊り保存会」のこと

21/1/2018

毎年11月3日、文化の日の祝日に田山地区で行われる伝統行事「田山花踊り」は、もともと雨乞いの神事として江戸時代中期に始まったとされています。大正時代に一度は途絶えたものの、1963年に地域の保存会のみなさんの尽力で、五穀豊穣を祈るお祭りとして復活を果たし、今では京都府の無形文化財ともなっています。「やまびこ」2号で田山花踊りをフィーチャーしようと決めた私たち編集室は、この行事の舞台裏も見てみたい!ということで、本番前日、「田山花踊り保存会」の松本隆久会長を訪ね、お話を伺ってきました。
 

田山地区で生まれ育ち、長年農業を営んできた67歳の松本隆久さん。花踊りが復活を果たした1963年には、まだ中学生。松本会長のお父さんは保存会で奔走したメンバーのひとりでした。

「うちの親父がほら貝を吹いてた姿が面白くて、マネして遊んでたなあ。自分は高校を卒業してすぐに歌い手の部に入って、20年近く続けてたかな。10歳年上の先輩に“お前は高校出たら歌の部に来いよ”と声かけられてたから、逆らわれへん(笑)」

 

そう、花踊りの演者たちは「歌」「踊り」「ほら貝」「棒振り」「太鼓」など、いくつかの部に分かれ、それぞれの部で上の世代から下の世代へと伝統の継承が行われるのです。これまでは、演者として活躍するのは20~30代中心で、たいてい40代に入る頃には現役引退、という流れだったそうですが、今では過疎や少子化の影響もあって、若手が少ないのが悩みのタネ。新たな若手メンバーが入らず人手不足になってしまうと、先輩方も安心して引退できないそうです。けれど、今年はなんと一気に3名の若手メンバーが保存会に加わるという、近年例を見ないうれしいニュースが!3名ともUターンで村に戻ってきた若者たちです。
 

旧田山小学校の講堂を見せていただくと、踊り手の装束が人数分用意されています。「シナイ」と呼ばれる、踊り手が背負うさまざまな飾りのついた棒も、みんな村人の手作りだそうです。

「大正の頃の写真見ても、こんなんしてたし。復活させようという時に村の年寄りさんに聞いて作ったんやと思うで」と松本会長は言います。

これは、踊り手がまとう着物。花踊り復活の際に、染色家の皆川月華に依頼して作ったオリジナルです。50年以上が経過して、やや経年劣化が気になり始めていましたが、昨年府からの補助金でめでたく新調しなおすことができたとか。

そしてこれは太鼓や歌の演者たちがはくわらじ。田山伝承クラブの福北修三さんが、毎年新しく約20名分を編んでくださるそう。

「材料は、村でとれた餅わら。餅米のわらは、うるち米のわらより柔らかいねん。乾かしたわらを木づちで叩いてやわらかくしてから編むんやけど、これも作る人がいなくなったら困るなあ」と松本会長。

 

ちょっとした品々にも、受け継がれてきたたくさんの思いが込められている「花踊り」。保存会のみなさんは、本番を迎えるまで、約1か月半前から練習を続けてきたそうです。

「まず歌と太鼓の部は、先に練習進めてもらわんとどうもならんから、9月の中旬からひと足先に練習を始めておいて、あとから踊りも加わって週2日、夜に集まって練習するんです。花踊りには全部で7つの曲があって、それを毎年ローテーションで2曲ずつやっていくから、全部ひととおり覚えるには何年もかかるわね。だから保存会に入会して、練習に参加できる人でないと、演者として出られへんのです」

「自分らは歌やったけど、昔は録音なんかないから、師匠の歌うのを聴いて耳で覚えて…。最近はもうそんなことないけど、歌は酒好きが多かったから昔は練習のたんびに飲んだね。昔はまだこの辺りには居酒屋も焼き肉店もあったし…」と当時を振り返る松本会長。

練習後の酒盛りは、きっと若者たちの楽しみでもあったのでしょうね。そして昔は、花踊り本番が終わると、神社にある和室を借りて、演者もお手伝いの人も総出で宴会をしたそうです。いいですねえー!老若男女が夕暮れの神社でつどい、飲んだり食べたりしながら、笑って語り合っている風景、やまびこ編集室としてはもう一度見てみたいものだと、思ったのでした。(松本 幸/QUILL)

 

〈おまけ〉

そんなわけで、翌日の花踊り当日。「山のテーブル」の對中さんが腕によりをかけて、取材チーム用に作ってくれたお弁当がこちら。踊り手の衣裳にインスピレーションを受け、赤や緑やピンクが、海山のように重なり合うさまを、表現したのだそうで…。おいしかったです、ごちそうさま!

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